追 悼  平成15年4月25日、銀桂会々長である高宮正彦先輩が亡くなられました。27日、京北町のご自宅で執り行われた葬儀の模様を、会員各位にお伝えするため銀桂会のホームページを立ち上げました。
  71歳で旅立たれた「ダンナ」のご冥福をお祈り致します。

  日曜日で久々の好天に恵まれ、かなりな人出の有ることを実感し、急遽進路を変更して混雑して居るであろう京都市内を通ることを止め、途中を通って大原の手前から山道を、古知谷・百井・花脊・黒田と抜けて弓削に出ました。道中の杉並木に、一生を林業に捧げられた先輩を思いながら、殆ど交通渋滞の無い山道を通って行ったのですが、それでも私の自宅から丁度2時間掛かりました。











































  帰路、高宮先輩に教えて頂いてお参りしたことのある、大雄山・常照皇寺を訪ね、お供養をお願いして帰りました。御車返しの桜は既に散っていましたが、素晴らしいお庭に改めて、亡くなられた先輩の事を思い出しておりました。










追 悼 文

  府大スキー部OB会「銀桂会」と、軟式テニス部OB会「叡庭会」が、両方のクラブのOBであった高宮先輩を偲んで、追悼文集を出すから原稿を書くようにと依頼が有りました。差出人は同じく両方のクラブのOBである赤尾文雄先輩。どうにか書き上げてお送りしましたが、下書きを見せた友人から、どうしてHPに載せないのかと言われ、全く想定していなかったのですが、掲載することにしました。追悼文集が出る前に、こんな形で公開するのは少し気になりますが、ダンナにはお許し頂けるかと思っております。

「馬を買え」と言われて 
  いくら田舎から京都に出てきて、右も左も分からないと言っても、年齢から言えば私より10年先輩の高宮さんが、入学当時の私に途方もなく偉い先輩に見えた理由は、一体何だったのだろう。
  兎に角怖い先輩だった。何かを問われても、答えは最初からご自分で持っておられた様に思われ、迂闊な事は言えなかった。こちらが何かをお尋ねすると、間髪を入れずに答えがビシッと返ってきて、これまた非常に怖かった。そんな先輩に10年後、家内を紹介され仲人をして頂くことになろうとは、学生時代には夢想もしなかった。
  一番最初に怖かった思い出は、初めてスキー講習会で野沢に行き、初日に集合した乙女ゲレンデでのこと。黒いセーターに同じく黒い毛糸の帽子の高宮さんが、講習生全員を集めてお墓の前で説明をされていた時、ゲレンデの中間辺りに立って聞いていた女子学生が、スキーのエッジングが緩んで下に居た講習生の方に滑り出し、運悪く沢辺先輩の新品の、黒に赤の細い線の入った小賀坂のスキー板の上を、まともに滑ってしまった事がある。沢辺さんの怒るまいことか。何しろまだこの日がおろし立て。一度も滑ってない全くの新品。大きな声で怒鳴られたのを記憶している。怖かったのはその後。高宮さんから沢辺さんに更に大きな雷が落ちた。
  少しは認めて貰えたかなと思えたのは、3回生になった頃だろうか。夏期休暇に入った頃か、定期考査の終わった11月。シーズン・インを前に、先輩達に資金援助をお願いしようと相談が纏まり、まず最初に高宮さんを訪ねた。泉谷(現:阿部)がワーゲンで伴走してくれ、仁和寺の前から走り出した。当時はまだトンネルもなく、全コース35qだったか。最後の峠の上から、周山の街並みが遙か下の方に見えたときの事を、今も憶えている。何の前触れもなく、汗まみれになっていきなり弓削郵便局に飛び込んで、「局長、おられますか」と女子の局員さんに言ったと思う。非常に驚きそして喜んで、その日お家ですき焼きをご馳走して下さった。後日、「銀桂会」の席で、「平井ちゅう奴は、ワヤな奴っちゃ。すぐその辺から走って来て、京都から走ってきた様な顔をして、すき焼き食って帰りよった」と言われてしまったが、笑いながら話される高宮さんの表情には、何とも言えない暖かみが溢れていた。
  卒業後、派米農業研修生として昭和42年6月に渡米。その秋、リンゴの農場で実習していると高宮さんから手紙が届いた。文面は、「弟の輝千代がメキシコ・オリンピックに行くから、お前はそっちで馬を買って待っていてくれ。馬はアラブかトロッター種」。高宮さんの弟さんは、確か私と同学年。ニュージーランドから買われた白馬・バリーナ号で出場された国体で優勝された他、全日本でも何度も勝っておられる名選手。慌ててスーパーマーケットで馬の雑誌を何冊も買って来た。雑誌の最後の方には、テキサス辺りの牧場の広告が掲載されている。詳しい事は何も分からないから、兎に角これらの牧場に手紙を書いて、話に乗ってくれそうな所を探すより無い。幸い私は午年生まれ。しかしそれ以外には、馬に関して何の知識も無い。途方に暮れて居る所へ2通目の手紙が届いた。「何度も何度も選考会をし、輝千代さんの成績が悪かった時をもって選考終了を宣言され、メキシコ・オリンピックには出場出来なくなった」と。従ってアメリカで馬を買い、その馬と一緒にメキシコ・オリンピックに行く? 話は立ち消えになってしまった。もっとも次のミュンヘン・オリンピックの時には、「平井、しゃーないからヨーロッパへ、馬を買いに行ってくるわ」と、嬉しそうに話されていたが。
  高宮さんの後を継いで、スキー講習会を取り仕切っていたころ、一度だけ講習会においで願ったことがある。スキー部の先輩として、スキー講習会の世話人の先輩として、何か言われるのを覚悟していたが、全く拍子抜けする程だった。毎日機嫌良く酔っぱらって、スキーをされたかどうかも憶えていないが、全部お前に任せたぞと言って頂いて居るようで、非常に嬉しかった。帰りの列車待ちの間に赤倉の駅前の蕎麦屋で、モリ蕎麦とザル蕎麦の違いを問われて見事に負け、蕎麦を奢らされたのも楽しい思い出。
  或る年の新入生歓迎の銀桂会で、少し遅れて行くと自己紹介が始まっていて、いきなりお前の番やと言われ話し終えて座ると、隣の席の柿坂先輩から、「ダンナが後で話が有ると言うたはったぞ」と言われた。二条駅まで車でお送りし話を聞くと、「30になっても嫁を貰わんのなら俺もほっとくが、貰うのなら良いのが居るから一度会って見ろ」。この頃は少しは信用して貰っていたことと思うが、基本的には逆らえない怖い先輩。否応無い話だったが、先輩の眼力に狂いは無かった。高宮さんの奥さんは学芸大のご卒業。府大ー学大の組み合わせという意味では私の場合も同じだと、とても愉快そうに北桑田高校の体育の先生を紹介して下さった。ご自分達の幸せを、お前にもお裾分けしてやろう、という風だった。
  ご存じの無い方も多いかも知れないので、ちょっと高宮さんの秘密を。実は先輩は高所恐怖症でした。家を新築されるについての色々なエピソードは、ご承知の方も多いかと思う。私も何度も何度もおじゃまし、建前の日は朝早くから写真係をしていた。基礎から約1週間掛かって棟が上がったと言われたように記憶しているが、大方の部材が組上がった頃高宮さんに呼ばれ、一緒に2階部分まで上がったのだが、此処で先輩は立ち往生。勿論床板は張ってない上、仮のハシゴを更に何組も登らなければ、高さ40尺の所にある棟まで行けないのだが、棟上げの最後の儀式に棟梁と二人で最上部まで行かなければならないので、どうも私を呼んで試しに上がって見られたらしい。
  餅撒きも無事済んでいよいよ覚悟を決めてハシゴを登られたが、薄暗くなってはいたが明らかに足下はがたがたに震えていて気の毒だった。ご自分でも良く分かっておられて、後日、「施主が震えながら登っているのに、その上の棟木に跨って写真を撮っていたのは何者や」と、下で見ていた人達にからかわれたことを楽しそうに話された。こうして撮った写真はアルバムに組んでお贈りしたが、後日、高宮さんのお父様・正信氏から届いたお礼状には、「永く家宝にする」としたためられていました。
                                        昭和41年卒 平井貞夫
inserted by FC2 system