平井農産 について
  昭和41年に大学を卒業し、父の肥料商を手伝い始めました。肥料屋になるんだったら大学では肥料の事を勉強すればよいと考えて、京都府立大学の農学部農芸化学科に入学し、土壌及び肥料学研究室に入ったのですが、卒業して田舎に帰ってみると、肥料屋に必要な知識はむしろ作物の栽培方法だと判り、(社)農業研修生派米協会(現:(公社)国際農業者交流協会)が主催するアメリカでの農業研修に参加。2年間の研修を終えて帰国した昭和44年から、肥料商と共に農業を本格的に始めました。 ( 2003年 3月 記)
  その頃はまだ母が主力で田植えも稲刈りも全部が手作業。我が家に入った農業機械の第1号は、得意先の農家から譲り受けた中古の脱穀機と発動機でした。耕耘機はこのヤンマーのディーゼル発動機を、従兄に貰った古いクボタの耕耘機の台車に載せて自作しました。この耕耘機、もう動かなくなっても捨てずに残してありましたが、流石に2017年に処分しました。次が平型の乾燥機。同じ肥料商仲間で農機具も扱っておられる、大津の奥清商店で購入。古い乾燥機を譲って貰ったりして少しずつ体勢を整え、最終的には3台並べて使っていました。
  同じ頃、大学のバスケットボール部の河本良太郎先輩が測量事務所を始められる事になり、図面を描くのを手伝うように言われ、バスケ部顧問の本城先生をアドバイザーに、数名のバスケの仲間と共に仕事を始めました。1〜2年経過した頃、秋の穫り入れが済んで農協に出荷した米が何俵か、乾燥不十分で買い上げて貰えなかった事が有りました。河本さんに話すと一度持ってきてみたらと言われ、お届けすると美味しいからと、続けて買って頂くことに成りました。これが自分で作って自分で販売する様に成った、最初の頃の事情です。
  幸いに評判が良く、段々と直接お送りする方が増え、今では収穫の全量を籾で貯蔵し、必要に応じて籾摺りをし精米をしてお送りしています。毎月定期的にお送りする方と、無くなればご注文を頂く方と有りますが、生産が追いつかない状態でした。その後何軒かの農家が作付けを辞めると言われ、小作を引き受ける様になりました。同じ人間がやっているので内容には何の変わりも無いのですが、受け取った方の印象は「平井肥料店」よりも、「平井農産」から届いた米と言う方が、農家から直接届けられたという印象を持って頂けるかと、名前だけ変えています。
「かじや村便り」について
  平井農産で生産する米を、直接消費者であるお得意様にお届けしています。この「かじや村便り」は以前「コシヒカリ便り」として出していました。毎月一回25日前後に作成し、宅配便でお送りするほか、直接お届けしたり我が家に取りに来られたりするお客様に、お渡ししているものです。以前は穫れ秋に一回、どういう作柄でしたという年次報告にしておりました。
 京都のスキー連盟の先輩役員から、こういう文章を読みながら食べると、美味しい米が一段と味を増すと言われたので、嬉しくなって毎年作り始めたのですが、北海道のお得意様から、毎月作って貰えたらと言われたのがきっかけで、作成回数が一気に増え、最近はカラーコピーをしていました。2003年の1月から我が家でプリントする他、ホームページにも載せることにしました。

 平成7年頃の写真です。大好きだったいすゞロデオで、田植機やコンバインを牽引して田へ行っていました。琵琶湖に遊びに来る若者が、こんな形でジェットスキーを引っ張っているのを見て、田植機を載せる台車を自作したものです。今では使っていませんが、最初は田植機が歩行型だったため、実は台車も2種類作ってあります。
  収穫の秋・写真集
  2002年9月にデジカメを購入。少しずつ写真を撮り始めました。このページでは2002年の収穫時の写真を載せていますが、稲の生育状況を追って順次写真を撮り、「今年の稲作・平井農産の稲」に掲載しています。

  「コシヒカリ」を主力に、「ひとめぼれ」「滋賀羽二重糯」を我が家の周りで、マキノ町では得意先農家の吉原紘二さん、醸造元専務の吉田肇君と一緒に、酒米の「山田錦」を作っています。「山田錦」はマキノ町海津の「吉田酒造」で、大吟醸「花嵐」となります。
  家の前の町道沿いには、今年90歳になる母が毎年コスモスを植えてくれ、秋には見事な花街道になります。上の左側の写真・オレンジ色のシートハウスは農業機械を入れています。同じく右側の写真の少し大きなハウスは肥料の倉庫、その向こうに家が有ります。
 長男の佐千夫が一緒に仕事をしています。一昨年6月にバイクで事故を起こし、3ヶ月近くも入院するというかなり大きな怪我をしました。幸い元気になって昨年に引き続き今年も、夏の滋賀県民体育大会でウェィト リフティングに出場し、優勝しました。中学生の頃から安曇川高校に通い西村先生の指導を受けていて、インターハイに出場したことも有ります。コンバインは古いのですが、買い換えるには使用時間数が約190時間と少ないので、大事に使っています。

  平成8年まではこんな形でコンバインを引っ張って、稲刈りに行っておりました。刈り取った籾は小さな籾袋に入っていて、トラックに積んで持って帰り、乾燥機に並べて乾燥していました。

  平成9年の春に、トラックやコンバインが新しくなりました。何とか省力化出来ないものかと思案し、籾を受ける袋をグレンバッグにしました。トラックへの積み込みには、和歌山県九度山町の藤井鉄工所で、特注して作って頂いたミニクレーンを使っていました。





  グレンタンクからオーガーで、トラックに籾を移すタイプのコンバインがほとんどですが、我が家のコンバインは型式こそ古いものの使用時間数が少ないため、籾を受ける袋をグレンバッグにして省力化を図っています。一反分の籾がこのバッグで3袋くらいに収納出来ます。農道がしっかりした大きな田の場合には、フォークリフトを持って行き、一度に2反分の籾をトラックに積み込みます。


 殆ど全部の田でフォークリフトを使っていますが、元々は右の写真の様に袋で籾を受けていました。現在は種籾を収穫する時にのみこの様にしています。
米の出荷体系
  下の4枚の写真。左側の上下2枚は、収穫の済んだ籾をトラックに積んで帰り、乾燥機に張り込んで居るところ。乾燥の済んだ籾は一旦グレンバッグに貯蔵。全部の品種を収穫し、「滋賀羽二重糯」まで乾燥が終わると大掃除。一番作付け面積の多い籾を乾燥機に戻しているのが右側の上下2枚の写真です。冬の間にお送りする分位はこの乾燥機に貯蔵出来ます。後は断熱材を入れた貯蔵室に入れて保管、順次籾摺りをします。毎月宅配便でお送りしたり、我が家に取りに来られる方にお渡しするのに必要な量を、姉の嫁ぎ先・隣町の「萬木綱商店」で精米、2kgと5kgの真空パックにしています。
  乾燥機や籾摺りをする機械類はこの小屋の中に有ります。昭和48年に出来たときは1m50pほど低く左の方に長い屋根が来て、「逆への字型」になっていました。棟が低くてどうしても乾燥機が入れられず、平成9年の秋に全部ばらして小屋の屋根部分をフォークリフトで持ち上げ、回れ右をさせて継ぎ足した支柱に載せてみました。たまたま遊びに来た欧州研修の女子OB2人に手伝って貰い、無事完成。回れ右をさせずにそのまま背を高くすると、古い小屋の屋根との間に2メートル近い隙間が出来て、大屋根と庇からの屋根雪がこの鉄骨の小屋に入り込み、処理に困るのです。この小屋の左側にも屋根を掛けておこうと準備をしています。

                  

                  
                  
  籾摺りの時に出るモミガラをこの箱で受けています。箱の中の籾殻の詰まり具合を見るのに、小さな覗き窓を5カ所も付けました。一杯に溜まったところで田に撒くわけですが、、牽引旱をトラクターの油圧で上げて籾殻が落ちやすい様、ロワーリンクに載せて引いています。この箱の底板にもかなりの傾斜を付けて有るのですが、走りながら適当に落ちる様にと言う目論見通りにはいかず、佐千夫と2人掛かりで作業をしています。籾殻は腐りにくいので、河床の方が田面より高く、いつも水が浸み込む田が有ります。こんな田の排水不良の部分に入れると目に見えて効果が有り、収穫時にコンバインが煮え込まなくなりました。

  稲を収穫し秋起こしをするまでの、ほんの短い間だけはモミガラを田に撒けるのですが、冬場はどうしても溜まって仕舞って次の籾摺りが出来なくなります。こんな時には仕方なく、田に空けて燃やしています。


  左端から入れた籾が乾燥機に入っていて、真ん中の臼摺り機で米になり、右後ろの石抜き機を通ってその手前のグレーダーで屑米や小米を抜き、計量します。
  我が家には循環式の小型の精米機も有って、7分精米とか胚芽精米の場合に使いますが、大体は隣町の「萬木綱商店」で精米します。姉の嫁ぎ先なので気楽に、機械さえ空いていれば勝手に使わせて貰って、真空パックして持って帰ります。
萬木綱商店 石抜機と精米機

色彩選別機(通称:カラー選) 計量器と真空パックにするパッカー

                  

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