「かじや村便り」       平成21年 2009年 12月
 22日の夕方、母が亡くなりました。最後まで病院の世話になることもなく、自宅で96才9ヶ月の天寿を全うしました。
 大正2年3月23日の生まれ。2年3月23日の語呂合わせが口癖でしたので、家族は全員母の誕生日を覚えています。従って亡くなったのも、96才と9ヶ月ピッタリでした。 

 町内の下古賀で生まれ、小学校の高等科の時に母親を亡くし、北川家の長女として5人の兄弟姉妹の面倒を見、取り分け弟と妹は自分が育てたと良く言っておりました。私の父の妹が母の兄の所へ嫁ぐまで北川家を出ることが出来ず、ようやく女手が出来たので逆に父の元に嫁いで来ました。従って私の兄弟姉妹と北川家の子供2人は、血統的には殆ど同じと言う事になります。

 北川家は地主で祖父が村長などもしており、田植えなどの農作業は母が主力でこなしていたと聞きます。平井家に嫁いで来てからも、父が農協に勤めていて、戦時体制下には肥料配給公団に勤務していましたので、当然の様に家の百姓仕事は母の手に委ねられていました。祖父母は私も知っていますのでまだまだ元気だったのですが、取り分け祖母は嫁に来た母に一切を任せ、隠居所に引退したようです。

 昭和40年代まではまだ、農作業は全てが手作業でした。子供も学校から帰ると手伝うのが当たり前で、それぞれが農作業や家事を分担しなければ、生きていけなかった時代。稲刈りは干してある稲を稲木から降ろして、脱穀機の側に積み上げるのが子供の役目。父と母が脚踏み機械で脱穀し、稲藁を後ろに放り投げると、積み上がった藁束の中で積み木ごっこの様にして陣地を作って遊んだのが、忘れられない想い出です。新しい稲藁はとても良い匂いがするのです。

 逆に田植えは母の独壇場。当時はまだ水苗代でしたので、苗床から苗を取り束にしておいたのを父が田に運び、適当な場所に放り投げるのですが、後はひたすら母が植えるのです。朝早くから苗を取らなければならないので、その分時間を使いますが、それでも1反歩の田を植えるのに1日半くらいでした。横に縄を張っただけで後ろに下がりながら苗を植えるのですが、脚を動かさないで自分の前に一直線に植えるのにはコツがあります。普通にやればどうしても、苗は弓なりに植わって仕舞うのですが、母は見事に一直線に植えていました。従って植え終わった田は縦横がビシッと方形に揃って、何処の田よりも見事に植わっているのが、子供心にも自慢でした。

 昭和41年に私が家に帰り、初めて耕耘機で代掻きをしたときの田植えでは、こんな軟らかい田で田植えをしたのは初めてやと喜んでくれました。農作業は順次機械化され、トラクターや田植機・コンバインでの百姓仕事になって仕舞いましたが、苗代に苗箱を置く作業だけは今でも手作業。来春、佐千夫と苗代に苗箱を置く頃には、母と二人で苗代を作った事を懐かしく思い出す事でしょう。

 8月7日に家内の美代が、両股関節を人工関節にする手術をしました。美代が入院中、母をどうやって面倒見るか話し合ったのですが、年寄りは環境が変われば元気な人でも呆け始めると聞きます。隣町に嫁いでいる姉に、週1〜2回の入浴時だけでも世話してやって貰えないかと頼んだところ、母を預かってくれる事になりました。美代はリハビリが終わって、9月一杯で家に帰ってきたのですが、まだ自分の事をするのが精一杯。11月になってようやく自動車も運転できる様になりました。

 12月7日の早朝、姉からケータイに電話。7時前に電話が入るとドキッとしますが、これ以上預かるのは無理の様なのでと言う内容でした。幸い美代も何とか母の世話が出来ると言ってくれ、大掃除を済ませて8日に迎えに行きましたが、既に自力歩行が出来ない状態でした。11月末にはまだ、玄関先まで歩いて出ていたと聞いていましたので驚きましたが、以来我が家では床を離れる事は有りませんでした。幸い病院での診察では、血圧120/70でCTによる検査でも、何処も悪いところはないとの結果でしたが、逆に直ぐ介護認定をする事が難しいと言われたほど。家ではお粥を食べたり飲み物も欲しいと言ったりで、まさかそれ程急に…と意外でしたが、私の予想を超えて急激に体力を落としていたようでした。大勢の皆さんにご会葬頂き、24日無事葬儀を終えました。
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