平成15年12月

 海外に派遣している農業研修生の数が年々減少しています。とりわけ米国を研修先に選ぶ若者が激減し、遂に今年は米国2年制を希望する者が50名程になり、交流協会としても2次募集せざるを得なくなりました。応募者が8名。しかし通常なら9月に選考をし、10月から長野県八ヶ岳で11月には大分県湯布院でそれぞれ講習を始めています。2次募集の研修生を選考し講習に合流させるには和歌山しかなく、私の担当する和歌山の渡航前講習が、例年より大幅に遅れて始まる事になりました。

 11月30日に選考、12月1日から併せて29名の研修生と15日まで、14泊15日の講習です。予想外に日が短くて、朝は通常グラウンドでトレーニングを行いますが、5時半では真っ暗な上6時半頃まで日が昇らず、寒さもあって屋外のトレーニングは諦めました。その分体育館でやるのですが、何日かして膝に違和感を憶え、此処で体を鍛え直して冬のスキーシーズンに備えていたのに、全く走れなくなりました。此処の体育館は床がコンクリート。多分これが原因だと思うのですが、15年程前には馬跳びをしていて、右のふくらはぎを肉離れしたことも有ります。

こっちは還暦を過ぎた講習担当。別に20才前後の研修生達と一緒に走らなければならない訳でも無いのですが、常々、研修生の先頭に立って走れなくなったら、講習担当は辞めると言ってきただけに、内心は辛い物が有りました。案の定、高野山参拝登山ではスタミナ切れ。此処、和歌山県かつらぎ町の「紀北青少年の家」で講習を始めて25年。2年目から登り始めた高野山で、始めて先導を途中で交代して貰う羽目になりました。

 朝6時に講習所を出発。40分歩いて「慈尊院」まで行って朝食。0B2名が自動車にパンとジュース・牛乳などを積んで、先回りして待っていてくれます。ここからは「高野山・町石道」と呼ばれる、弘法大師が当時女人禁制だった高野山から、月に9度(これが町名・九度山町のいわれだそうです)お山を降りて、麓の「慈尊院」に居られた母に会いに来られたという山道。30p角で高さ3m位の石柱が1町毎に建っていて、慈尊院の180番から始まります。高野山の大塔まで、正味18kmはしっかりあると言うわけです。

 2回目の休憩所・丹生都比売神社に到着するのが10分ほど遅れ8時40分。雨引山の柿畑の農道で迷い、時間を浪費したのが応えて取り返せなかったのは、私も年かなと思った最初です。3回目の休憩は10時半の予定がまだ4分遅れ。何とか頑張ってと出発したものの次の急坂でふくらはぎが攣り出し、膝も痛み出してとても持たないかと心配しながら、それでもだましだまし歩きましたが、次の小休止の場所で車を運転していた講習助手の藤井君に、「大丈夫ですか?」と声を掛けられ、情けなくも先導を交代しました。後で聞くと、これはイカンと直ぐに判ったそうです。

 あと40分で高野山・大門。此処で後続の研修生達に「ご苦労さん」と言って、次々に登ってくる若者と握手をするのが例年なのですが、車で先回りをしての出迎えになりました。金剛峯寺ではスキー部後輩の山口君が企画課長をしており、旨く連絡が取れて案内をして貰い、昼食は昨年私の還暦祝いもしてくれた「花菱」さん。気温2度でかなり風もあり寒い日でしたが、雨は大したことなかったものの日が短くて、帰り道を例年の様に走れば、真っ暗な山道を迷う者も出るかも知れないと、ケーブルと電車で下山しました。それでも九度山駅から5km余りを歩いたり走ったりして、全員が帰り着いたのが6時半過ぎ。何とかこの行事が無事終われた事を感謝しています。この日試しに付けた万歩計のカウンターは、53,419でした。
inserted by FC2 system