滋賀県高島市安曇川町田中836番地

  明治42年生まれの父・佐吉は、学校を終えるとすぐ安曇村農業協同組合に入りました。15歳だったと言います。太平洋戦争が始まると生活必需品は全て配給制度になりましたが、私が物心付いた頃は、今津町に有った肥料配給公団に勤務しておりました。戦後しばらく続いたこの制度も昭和25年8月1日で廃止になり、多くの公団の所長がそうであったように父も、民営化なった肥料の販売に乗り出しました。
  自転車と荷車がその頃の我が家の主力輸送手段。後はオート三輪などを持つ業者に委託し配達をしておりました。大阪の商社に注文を入れるのは電報。電話が入る時、引き込み用の電柱6〜7本をたてる費用は、我が家で負担したと記憶しています。
  最初のエンジン付きの交通手段は、オートバイのホンダ・ドリーム号・1950年型でした。やがて軽三輪が発売になると、マツダK360が入ってきました。最初がピンク色、次がミズ色・灰色と3台乗り継ぎ、同じくマツダB360の軽四輪を2台乗り換え、父から私へのバトンタッチとなりました。
  アメリカでの農業研修を終え昭和44年に帰国。最初に乗ったのがトヨタ・パブリカのピックアップ。500s積でした。次にイスズ・ファスターを発売と同時に注文したのが53年秋。同じイスズのロデオを2台乗り継ぎ、現在はトヨタ・ダイナの1トン半積を使っています。
  父の時代は肥料は貨物列車で到着。荷物を倉庫に入れるのも大変でしたが、今はトラック輸送。とりわけ此処2・3年前からは、この様にパレットに積んだ荷物をラップして配送される様になり、荷崩れが無くなりました。フォークリフトは、私のホームページのホームドクター、岐阜・大垣の山田幸隆君が、買い換えるからと言うので譲って貰った物です。
 山田君は派米農業研修の4年後輩。「やまだのたまご」のブランドで養鶏業を営んでいます。昔から飼料に抗生物質を添加していないと言うので、我が家では少し卵にアレルギーのある次男の佐利も、安心して食べています。最近では孫の裕大も食べたれるように、宅配便でそれぞれ送って貰っています。
  肥料は、愛荘町の(株)高岡屋から 「住友肥料」を、東近江市の(有)野矢商店から 「多木肥料」 を仕入れて販売しています。両メーカーともそれぞれ個性的な銘柄の肥料を生産しており、住友化学には、一発肥料と呼んでいる「スーパーSRコート」などのコーティング肥料、スミショートなどの倒伏軽減剤入り肥料、更にはこの両者を組み合わせた究極の元肥一発肥料の「楽一」等、他社に真似の出来ない、総合化学会社ならではの優秀な肥料が有ります。
  一方の多木化学には、「明星」・「しきしま」・「タキアーゼS」などの、素晴らしい有機質肥料の銘柄が数多あり、美味しい近江米を生産するための、穂肥用の肥料として不可欠なのです。この日は野矢商店から奥村君の運転で、「明星1号」と「しきしま9号」が届きました。



 住友肥料は(株)高岡屋から到着します。



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