田 中 祭 馬の装束
  安曇川町の中心にある大字田中には、田中郷の氏神である「田中神社」があります。この神社のお祭りは昭和30年代までは、「馬祭り」として近郷近在に知れ渡った大きなお祭りでした。耕耘機からトラクターと農業に機械が導入されるに従って、農家は農耕に馬を使わなくなり、次第にお祭りも変貌を遂げ、今では役馬1頭のみの奉納となってしまいました。
  歴史的に見ると、田中郷西南の山手には、中世には田中城があり、越前朝倉攻めの際に、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人が逗留したという記録が残っています。また、当時の城主であった田中吉政は、後に関ヶ原の合戦で東軍に加わって、敗走した西軍の大将・石田三成を捕らえたことで知られる武将で、その功績により筑後柳川藩三十二万石を与えられました。田中家はその後二代目で途絶えましたが、その治世中は城の増築や幹線道路造りといった、城下町の整備や筑後川の改修などに力を注ぎ、地元では柳川藩の発展の礎を築いた名君と称えられているそうです。
  我が家に代々伝わる馬祭りの装束は、私の曾祖父が田を1反売って京都で作らせたと聞いております。明治31年3月21日と衣装箱に書かれていますが、支那事変に出征して以後馬は飼わなかったらしく、私が生まれた頃には我が家に馬はおりませんでした。それが幸いして、我が家にこの様な装束が伝わっていることを誰も知らなかったのか、東映時代劇が華やかなりし頃、馬の装束を買いに回った商人も我が家には足を向けなかったようです。私の代になってからも何度か話は有りましたが、私が午年生まれだから絶対に手放さないと言うと、大抵諦めて帰りました。父は子供の頃、近在の祭りによばれて行くときには、何時も乗り手だったそうですので、勿論話があっても手放さなかったのでしょう。
  毎年5月には、虫干しを兼ねて家の居間に装束を飾ります。「田中神社」と我が家の定紋が入っているのが、誂えて作った事を証明しているようで気に入っています。父が京都で鑑定して貰った結果では、鞍は江戸時代の公家の女性が使った「女鞍」との事でした。
  実は1度だけ「田中祭」にこの装束を使った事があります。その年は南市が3年ごとに回ってくる渡し番。毎年の傘鉾の他に役馬が加わります。ところがお祭りの為の区の会議で、親戚に不幸があったので毎回出して頂いている装束を、その年だけは遠慮したいと言われたのです。会議が長引き他に思案のしようも無い事なので、私が出させて貰うからと言ったのですが、誰も信用しませんでした。
  直ぐに家に帰って持って行くと、あるお年寄りの役員が、「これはあんたの家が、個人で所有しているのか?」と驚かれた位。たまたまその年は私が区長代理をしており、長男の佐千夫が「須婆使」と言う役目で、馬に乗ってお祭りに参加することになっていたため、50数年ぶりに使ったのですが。
  下の写真は南市区長で、田中祭の大総代を務められた安原修さんが、野上写真館(店主は同級生の徹君)に依頼して撮って貰い、額に入れて田中神社に奉納されたものを、私にも贈って下さった物。「流鏑馬」で弓の手を披露しておられるのは、佐千夫に乗馬を教えて頂いた西川鉦太良さん。スキースポーツ少年団のコーチ仲間でもあります。
  馬に装束を飾り付けるのには技術が必要で、この時は3軒東の平井石松さんにお願いしました。この装束にさわれた事をとても喜んで、「もう一度、何時かなぶらしてくれよ」と言われたのを思い出します。
  下の写真で、右端の紋付き羽織袴の後ろ姿が大総代の修さん。その左で、馬の轡を持っておられるのが石松さん。馬の頭の向こうの方に居る羽織袴姿が私。こっち側の浴衣姿は岸本乗馬クラブの岸本さん。そして岸本さんが連れて来られたこの白い馬は、「暴れん坊将軍」のタイトルバックに走っている、その馬だとの事でした。平成2年のお祭りは本来の1日に行われました。あれから既に13年になります。

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