田中神社について
御 祭 神 建速素戔鳴尊 (たけはやすさのをのみこと)
奇稲田姫尊   (くしなだひめのみこと)
八柱御子神   (やはしらのみこがみ)
御 由 緒   五穀豊穣の守護神にして、俗に田植神 又は 五月神(さつきかみ)と尊称される、田中郷の産土神。
  孝元天皇(BC206年) 田中神社祈晴祭に、勅使御気主命を御差遣、晴れを祈ると伝えあり。当地に伝はる神代文字書の秀真政伝(ほづままつりづたへ)三十二巻の第八代孝元天皇の条に、「九年の夏 雨四十日降り 山城田淡海溢れ 田も稲熱歎きつぐれば 詔り御気主を使(勅使)に祈らしむ 淡国三尾(当地の古名)に 田中神 晴を祈りて防ふ為す 之れ 大己貴の田中祈り 六月十六日」とあるのが出典。
  (孝元天皇は第8代天皇で、在位期間は紀元前214年1月14日~紀元前158年9月2日。116歳で亡くなられことになっています。)
  明治25年の「祭典古儀取調書」には、織田信長の甥の織田七郎兵衛尉信澄が当社を祭り、阿弥陀山の三千坊を焼き討ちにしたという古老の言い伝えが有ると記されています。
  また当社の御社は、肥前国長崎桜町の四郎太夫という人物が所持とも伝えられています。長崎桜町は、長崎市役所のある一帯の地名です。
所 在 地 滋賀県高島市安曇川町田中1881


                                     2005/4/29




                                    2008/11/25


これらの石造品は、鎌倉時代の作品と言われています。


田中神社拝殿  天保5年(1834年)造営と言われています。

上の写真で右端手前に写っているのは、田中神社の「祓戸」です。
神社で式典が行われる時には、参拝者は此処で御祓いを受けてから、神殿の前の式典に臨みます。


     田中郷と下流の集落とが、安曇川の
     水利権について争った事件の紀念碑。
手力雄神社
  因みに昔は田中神社役員会は、安曇川の田中井から流れ出て、田中郷の田畑を潤す水の管理・差配までしていた訳で、今でも田中郷の共同墓地や田中神社所有山林の管理など、その頃より引き続いて行っている業務があります。

  田中神社本殿。天保3年(1832年)の造営と言われていますが、それ以前に有った古いお社は、寛延年間(1750年頃)の造営になります。左側に門まで続いている庇は、平成8年からの改修工事で延ばされたものです。

田中神社には、境内に幾つかの末社があります。
蛭子神社

天満神社 ・ 若宮八幡宮

国常立神社 ・ 日吉神社

天邇伎志神社 ・ 武八幡神社 ・ 三尾神社


 神輿蔵です。300貫とも1トンとも言われる大きな御神輿が入っております。大分前から神輿は拝殿に飾るだけになりましたが、往時はこの急な石段を担いで上り下りし、お祭りを行っておりました。明治25年の「祭典古儀等取調書」によると、この神輿担きには、渡し番区より200人が出て役に当たっていた様です。
 神輿蔵は平成20年に改修しました。
 神饌所は平成19年に改修しました。

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